広大な池泉を中心とした美しい庭園
毛越寺はかつて堂塔40棟と僧坊500軒があり、中尊寺をしのぐほどの規模と豪華さがあったと言われています。しかし、奥州藤原氏の滅亡後、災害によりすべての建物が焼失しました。現在では、大泉が中心となる浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な形で保存されています。
庭園の作者は不明ですが、作庭記流の意匠が多く見られることから、作庭記に精通した者が設計したと考えられます。広大な池泉を中心とした庭園には、中島が二つ、池泉の東南岸に一ヶ所、南側に三ヶ所の出島が作られています。大きい方の中島の正面には金堂跡、鐘楼跡、鼓楼跡があります。中島から南大門まで反り橋が架けられていたため、寝殿造りの意匠が見て取れます。
池の中央には勾玉状の中島があり、池の周辺や中島には玉石が敷かれています。水際には海岸の風景や山水の景観が映し出され、特に池の東南岸にある荒磯風の出島は庭園の中で最も美しい景観の一つとされています。出島の先端には高さ2メートル余りの立石が立っており、広い水面を引き締めています。
歴史
寺伝によれば、嘉祥3年(850年)に中尊寺と同年に円仁が創建しました。その後、大火で焼失して荒廃しましたが、奥州藤原氏第2代基衡夫妻とその子である第3代秀衡が壮大な伽藍を再興しました。中世の歴史書『吾妻鏡』によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、円隆寺と号された金堂、講堂、常行堂、二階惣門、鐘楼、経蔵があり、嘉祥寺などの堂宇もあったため、当時は中尊寺をしのぐ規模だったとされています。金堂の円隆寺は金銀、紫檀をちりばめ、その荘厳さは『吾妻鏡』に「吾朝無双」と評されました。
鎌倉時代には鎌倉幕府にも保護されましたが、嘉禄2年(1226年)に火災に遭い、戦国時代の天正元年(1573年)には兵火に遭い、長年の間、土壇と礎石を残すだけとなっていました。江戸時代には仙台藩領内となり、寛永13年(1636年)の伊達政宗の死去に際して、当時の本尊の釈迦三尊が政宗の霊廟「瑞鳳殿」に隣接する政宗の菩提寺・瑞鳳寺(宮城県仙台市)に遷されました。寛文年間(1661年〜1672年)には本寺とその周辺は水田化されましたが、伊達藩により経済的援助や保護が行われました。
明治の後半には新しい本堂や庫裏を南大門の外側に建て、1921年(大正10年)には伊達一関藩・一関城の大手門を移して山門としました。1922年(大正11年)10月12日には「毛越寺境内 附 鎮守社跡」として史跡に指定されました。